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現在高校教師として教鞭をとっている低スペック喪女です。はっきり言って毎日が地獄!だけど、喪女なりに上を目指して頑張る日々を綴ります。
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新卒で入社した民間企業を辞めたいと思うようになり、真っ先に思い浮かんだ転職先は教師でした。




なぜなら、私は大学時代に教職課程をとっていたことと、あとはどうせ結婚できないんだから女一人で食べていける職業が理想だったのです。





まずは力試しだ、と受けた自治体に運良く合格し、晴れて私は正規職員として高校の教師になることができたのです。おそらく、勤めていた企業が有名企業だったので合格できたのかも知れません。教員の採用試験については、テーマ「教員生活」でまた詳しく書きたいと思います。





一応、勤めていた会社には引き止められましたが、ここに私の居場所はない思っていたのですっぱり辞めて教員になることを決意しました。





現在、教員になって数年が経ちますが、やりがいはあります。しかし、自分の時間はほとんどないです。





私の場合、コミュ障なのでかなり苦労しましたが、それでも一度高校生活を経験しているので仕事のイメージがしやすく、以前勤めていた会社のように「何をしていいのかわからない」ということはなくなりました。






Fラン大卒の私でしたが、授業は国語や英語、数学、理科以外であれば勉強すれば何とかなります。なぜなら教員には指導書が教科書とセットでついてくるからです。進学校の3年生をいきなり任されることは少ないと思いますが、ないわけではないです。そういう場合は授業の準備時間にかなり時間をかけることになると思います。






そもそもFランの人間が進学校に異動させられるの?と言われれば、されます。現に私の初任校は進学校でした。






充実している教員生活でしたが、運動部の顧問になったため、土日はもちろん祝日、お盆となかなか休めない生活が続き、私は次第に「辞めたい」と思うようになってきました。





そして、現在転職活動中です。このことについてはテーマ「転職活動」でも詳しく書きたいと思いますが、教員から民間企業への転職はかなり厳しいというのは間違いないようです。





今までの人生を振り返ると、私はなんて甘ちゃんだ、と思いますが、私なりに教員生活は頑張っていると思いますし、何よりコミュ障だけでは片づけられない独特の考え方や行動をするため、普通の人が想像する以上に色々経験しています。





だから仕方ない、というわけではなく、普通の人はあまり感じないようなことをブログで綴り、同じ辛い思いをしている人が共感し、さらに「私だけじゃないんだ」と救われたなら最高だと思っています。



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運良く総合電機メーカーに就職できた私は会社の配属により上京しました。






このときもまた懲りずに社会人デビューしようなどと考えていました。







しかし、そんな夢はあっさり消え去るのでした。






まず、能力がないくせに大手に入ったことで研修についていけなかったです。








いや、これは言い訳で毎日6時に起きて18時に帰宅という生活は私には辛すぎて研修よりも「はやく終わらないかなあ」で頭いっぱいでした。







しかも、帰宅後は復習するどころかクタクタで寝てしまう始末。








私は自分が体力がないのか甘えているだけなのかわからず、すごく悩みました。







どうして、みんなそんなに元気なの?と不思議で仕方なかったです。








また、同期とも反りが合わず、明らかに私に攻撃的な人もいました。









中には友好的に接してくれる人もいましたが、研修が終わってそれぞれ同期は違う部署に配属されました。











私が配属された部署は若い人がほとんどおらず、上司ともこれまた反りが合わなくて苦痛の毎日でした。










「めんどくせえ奴だなあ」









「いちいち言わせないで」









等と言われ、いよいよ私は死にたいと毎日思うようになりました。











今思うと私が甘ちゃんだったのですが、当時は本当にどうしたら良いのかわからず、上司も放任主義だったため、私は会社に必要とされていないと思うようになったんですね。












そんなとき、精神科に通院していたのですが、自分は発達障害ではないか?と思い、専門医に診てもらうことになりました。









結果はグレイゾーンの広範性発達障害とのことでした。









これを機に、私は転職を考えるようになったのです。この会社では私の能力だと迷惑をかけるだけだし、何より職場が新人を育てようという雰囲気が感じられず、コミュ障の私には合わないんだと感じました。










これも今思うと周りに嫌われてでも良いから歯を食いしばって仕事を覚えるべきだったと思います。でも、何を言っても時間は戻らないですからね。
 
 
 
 



 
 
 
ちなみにこの会社には約四年間在籍していました。

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大学に入学した私は、今度こそ楽しい学生生活を送る!と意気込んでいました。




隣の県の大学に進学した私は、同じ大学に知り合いがいないことがとても嬉しかったんですね。




運よく実家は駅から近く、隣の県といっても大学までは徒歩と電車で合計1時間15分ぐらいで通えたのです。




まずは友達づくり!と思っていましたが、ここでもコミュ障とKYが災いし、孤立とまではいかなくてもあまり友達ができませんでした。




1人で学食を食べる日も結構ありましたし、移動教室も1人で移動することが度々ありました。




バイトは最初、スポーツジムのインストラクターをしましたが、これは半年ぐらいで辞めました。




その後は出版社、コンビニ、巫女、飲食店、短期バイト、試験監督と色々なバイトをしました。これら以外にも遊園地で短期バイトをしたり、食品工場でひたすらパック詰めや野菜を切る作業なんかもしましたが、どれも今となっては良い思い出です。




ただ、食品工場のバイトは立ちっぱなしで同じ姿勢が多く、腰も足も痛くなって私は二度とやりたくないと思いました。逆に試験監督のバイトは日給も良く、大学のバイト紹介で掲載される度に申し込んでいました。





しかし、バイトをするにもしんどいのに、こんなことで社会人が勤まるのかな・・・と私は将来を危惧するようになっていました。





就職活動では「高校時代に部活で全国優勝」という肩書があったため、書類選考も通りやすく運良く誰もが知っている総合電機メーカーに就職することができました。





本当に30社~50社と受けましたが、書類でダメな会社もあればトントン拍子で選考が進む会社もあって、新卒のときは「数打ちゃ当たる作戦」「当たって砕けろ」が一番有効であると感じました。時間の無駄に思うかも知れませんが、行きたい会社は手当り次第に受けたほうが良いです。





しかし、なぜコミュ障でFラン喪女の私が大手に就職できたのか。それについては、テーマ「転職活動」で詳細を書きたいと思います。





そして、現在32歳で転職活動をしていて感じるのは「新卒」という肩書は想像以上に効果があったんだということです。今、新卒で入社した総合電機メーカーに転職しようと思っても99%無理だと思います。



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公立高校に入学し、私は進学クラスに入ることができました。



しかし、高校生活も面白くなく、友達もできずに孤立気味でした。



運動部に一応所属するも、練習には行ったり行かない日々が続き、次第に部活に顔を出しづらくなりました。
 



家でも私は「あんたは家の癌だ(うちは3人兄弟でした)」と言われ、本当に居場所がなかったです。



何度死にたいと思ったか。



そのときは、自分が甘えているなどと思わずに「自分は不幸だ」とばかり考えていました。



今思うと私は愚痴ばかりで全く努力もせず、コミュ障で挙動不審でしたし、人の傷つくことを平気で言ったり空気を読めなかったりと嫌われても仕方なかったと思います。




そんなとき、部活をやめたいと顧問の先生に言うと「お前なんてさっさと辞めてしまえ」と言われました。




これが良かったんですね。一丁前にプライドだけは高かった私は「今に見てろよ」と心の中で叫び、翌日から練習に顔を出すようになりました。






最初は全然練習についていけず、先輩からも嫌われていたので辛い思いや悔しい思いも沢山しましたが、「見返してやる」という一心で何とか踏ん張ることができました。
 
 



 
勉強はほとんどしませんでしたが、部活には精を出し、3年生の夏には全国優勝を果たしました。マイナーな個人競技だからこそできたのですが、これは今後の私の人生にもプラスになりましたね。





それでも、中には私のことを「きもい」という男子は結構いましたよ。笑





私の場合、特に男子に嫌われるみたいで私自身も男子が苦手でした。





それと、大学進学はするつもりでしたが、大学で部活を続ける気はなかったのでスポーツ推薦を全て断り、一般入試で入れる大学を探し始めました。





もちろん、私が入れるような大学はFラン大学しかなく、偏差値55ぐらいのCラン大学を受験するも落ち続ける日々でしたが、なぜかDラン大学に行くつもりはなかったです。






そして、文系のくせになんとかFラン大学の工学系学部に合格できたのでした。


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中学受験に失敗して公立中学へ通うことになったのですが、これが地獄の始まりでした。



私が通っていた中学校は地元でも荒れていると有名な中学校で、そこへ通いたくないばかりに私立へ通う人も沢山いました。




地域がらの問題もあって、治安が悪くヤンキーやヤ〇ザが多い地域から通っている生徒が半分ぐらいいたので、お父さんがヤ〇ザ、お母さんが水商売なんてザラにいたわけです。



まず、授業は成立しない、授業中でも平気で立ち歩く、少年院へ送られた生徒、病院送りになった先生、ガラスは割れる、授業はビデオ鑑賞の日々でした。



中学校名を言うだけで入塾を断られたこともありました。



そんな中学でしたから、コミュ障でブスの私が平穏に暮らせるはずがありません。



孤立はもちろん、毎朝廊下を通るたびに「きも」「スカート長すぎ」「暗っ」等と言われていました。完全無視するしかなかったんですけど、いつも次は何言われるんだろうって脅えていました。



席替えのときも、私の隣を嫌がる男子がいて「無理!」と騒がれたこともあります。



お前は小学生か・・・と言いたい気持ちを堪えつつ、転校したいと毎日思っていました。



特に私を嫌っていた男子生徒の名字がコ〇マ電気と同じだったことから、その店で買い物するのが絶対に嫌だったぐらい私も彼が嫌いでした。



中学のときの楽しみはアニメを見ることで、アニメイトにめっちゃ通っていました。学校から帰るとアニメを見るかゲームをするか食べるか寝るかの生活でした。笑



そんな私でしたが、なんとか地元の公立高校に合格して通うことになったのでした。

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